「亜双義、これ。面白かったよ」
手渡されたのは以前貸した通俗小説だ。愛憎の縺れ故に女が男を殺害してしまう狂気の沙汰を精緻に描いた作品である。そうか、面白かったか。
「ちょっとコワかったけど、人間らしさというのがよく表されてたというか。おまえもこういうの読むんだな」
「参考程度にな」
「参考?」
「事件の事例に似たようなものがあるからな。理解の足がかりになる」
「ああ……。恐ろしいな、人の感情というのも」
眉を下げる成歩堂を見据え、その名を呼ぶ。短く返事をした男の真っ直ぐな瞳はオレの思考を柔く鈍らせた。
「この話の中に正義はあったと思うか」
「……難しい話だな」
オレの表情を見て長くなりそうだと悟ったのか、『続きは牛鍋屋で』と男は柔和な声で言った。そのハラが切実な声を出していることに気がついていたので、笑いながら頷いてやった。

水の入った湯呑みを持ち、部屋の片隅で立ち止まる。何かが頭を殴りつけるような不快な心地が続いている。灯りのひとつもつけていない暗闇だけの部屋の奥には本が鎮座していた。成歩堂に貸したものだった。
いやに明るい月が窓の外から横っ面を差してくる。素足で踏みしめる畳の目の一つ一つをずいぶん過敏に意識することで平静を繕っていた。今、何か一つでも物音が聞こえれば暴れだすだろう、この体は。随分長い間そうして立ち尽くしていたオレは、やがて湯呑みを持つ手から力を抜く。静かに溢れた水が畳に染み込んでいった。



もう上げてたらすまない