「二ヶ月後、明け方の少し前、港にて待つ」と果たし状のような文面の国際電信が届いてからあっという間に二ヶ月が経ち、ぼくはその文字に従うため家を出た。不親切にもどの港かという指定はなかったけれど、ここだという確信はある。何せ思い出の地だ。
いつものように狩魔を腰に携えながら空を仰ぐ。藍と灰の中に混じりはじめた薄い白はもうすぐ辺りに広がって、じきに陽は昇るだろう。でも少し早く着きすぎてしまったかなと思いながら歩いていると、不意に乾いた風に揺られるハチマキが前方に靡いた。薄暗い景色の中に一つの人影が見える。ずいぶん早いご到着だ、と胸中で呟いた後ぼくは小走りでその人影に駆け寄った。足音に気がついてそいつは振り返る。
「しばらくぶりだな、成歩堂龍ノ介」
「亜双義。おまえ、もう着いてたのか」
数年越しに見るその顔は以前と変わらず凛々しいもので、むしろ以前よりさらに精悍になっているかもしれなかった。意志の強い瞳はきちんと澄んでいる。いつからいたんだ、と尋ねてみると亜双義は顎に手をやり少し考え込んだ。
「確か一時間程前だ」
「えっ、そんなに前からか?」
なんでも大英帝国と日本の空気を静かに味わいたかったそうだ。空と海を見ていればあっという間に時間が経った、と言う亜双義に倣って物言わぬ空と海を一瞥してみる。一見何の変化もないけれど、この男にとっては雄弁な無音だったのだろう。
「元気そうで良かった」
そう言うと、親友は腕を組み穏やかに笑う。その懐かしい笑顔を前に、心は数年の月日を容易に飛び越えた。
「キサマもな」

話したいことはうず高く積もっているはずなのに、いざこうして顔を突き合わせると意外に言葉は出てこない。何も話さないままの時間は空を微かにうす明るく染め、亜双義の穏やかな目尻は先刻よりもよく見えるようになっている。
「検事の仕事は順調か?」
ようやく口から転がった言葉は素朴なものだったけれど、亜双義は充分だと言いたげに微笑む。頷いてから、キサマも、とその唇が動いた。
「どうだ、弁護士は」
「……辛いこともないわけじゃないけど、やめようとは思わないな。まだまだやれることがある気がしているんだ」
「隣には優秀な法務助士も付いてくれている事だしな」
「ああ。心強いよ」
彼女は――寿沙都さんには昨日、亜双義と会うことを話してある。存分にお話になってくださいませ、と言って笑顔を浮かべた彼女にはぼくたちが何を話すのかすでに分かっているようにも見えた。やっぱり寿沙都さんにはかなわない。そう言うと、亜双義は「相変わらず彼女は聡明だ」と口にして大きく笑った。
薄い靄の中で亜双義の鋭い眼差しが静かに光る。この瞳でいつもたくさんの人の中の『魔物』を裁いているのだろう。法に従い悪を裁く、迷いを乗り越えた友人はそれをしっかりと成し遂げている。亜双義、と横顔に声を掛けるとすぐに返事が寄越された。
 「この大日本帝国で見ても、おまえはもう大英帝国の検事なのだという風格があるよ」
「……キサマはどこにいてもキサマだな。大弁護士サマ」
額のすっきりした男はもう波風にハチマキを揺らすことはないけれど、ぼくの腰元でその赤は静かにそこに在るからこれで良いと思える。空は少しずつ暁を成して、やがてぼくらの輪郭を溶かした。
この港で大英帝国行きの船に乗り込んだ頃、友人は弁護士でぼくはただの大学生だった。それが今やすべてが変わっていて、けれど変わらないこともそれなりに多く存在する。そのことを、ひどく輝かしいと思う。
「腹が減ったな」
水平線から頭を出す大きな火のかたまりを見つめながら亜双義がそう呟いた。
「ゴハン、食べに行くか」
「キサマは何が食いたい」
そう尋ねはするが、どうせおまえの中でもぼくの中でも答えはすでに決まっているのだ。
「牛鍋だろ?」
「……あっはっは!」
検察側に異義はない、という明るい声があたりに響いて、ぼくも思わず笑ってしまった。