「おとなになったらひまりをおよめさんにもらうんだ!」

そう言って陽毬の手をとり笑う幼い兄貴の顔は今も鮮明に思い出すことができた。それに対して意味がわかっておらずただにっこりと笑った陽毬の顔も、二人を見て和やかに微笑む両親の顔もしっかり記憶している。ただ、その直後に僕が兄貴に言った言葉が、どうしても思い出せなかった。兄貴の左手と陽毬の右手、両方をとったところまでは覚えている。けれどそこから先の記憶がどうも曖昧だ。僕はあのとき、なんて言ったんだっけ。
陽毬の退院が近づくある日、いつもどおり男二人の華がない朝食の席で、ふとその話題を切り出してみた。喉元まで出掛かった答えがどうしても気になったのだ。きっと大したことはないものだったんだろうけど、このまま忘れっぱなしにしておくのは少々腑に落ちなかった。玉子焼きを掴む箸の動きがぴたりと止まり、すっとした目元が珍しくぱちくりと見開かれる。僕と同じ色を持つ瞳いっぱいに僕の姿が映った。

「また懐かしい話を持ち出してきたな」

かなり昔の話だし、そんなこととうに忘れてるんじゃないだろうかと懸念していたけれど、どうやら兄貴はあのときのことをちゃんと覚えているらしかった。陽毬関連のことに関してはやけに記憶力が優れているところは前から変わっていない。わりと長いまつげを伏せてずず、と味噌汁を啜る兄貴に問いかけてみる。

「あのとき僕がなんて言ったか、兄貴覚えてる?」

漬け物をこりこりと音を立てて食す兄貴は、それを最後まで咀嚼し飲みこんでからふっと口角を上げた。いつも女の子に向けるような優しい笑顔じゃなく、僕専用の、意地の悪いほくそ笑み。

「ああ、覚えてる」
「…僕、なんて言ってた?」
「言ってもいいのか?」

何を言ったんだ、あの日の僕は。少なくとも、兄貴に僕をからかうためのネタを提供してしまったことは間違いない。聞きたいような聞きたくないような、狭間で気持ちがゆーらゆらと揺れる。兄貴は僕の悩める姿をにやにやといやらしい笑みを維持したまま見つめていた。ああもう本当に何を言ってしまったんだ僕は。気になるけれど聞くのが死ぬほど恐ろしい。味噌汁から立ち上る湯気を見つめ一瞬迷った結果、僕が出した答えはなんとも臆病なものだった。知らぬが仏ということわざの使い時はきっと今だ。

「…やっぱいい」
「なんだ、いいのか?つまらんな」


僕は冠葉をお嫁さんにもらうよ的なことを晶ちゃんに言わせたかったんですが迂闊に高倉家の過去が書けなくて詰んだ