必要な資料があり書庫を訪れると、珍しいことに先生が机に伏して眠ってしまっていた。思わず近くに歩み寄りその顔を覗き込んでしまう。すうすうと規則的な寝息を立てる先生の、黒と緑の混ざったような色の髪が昼の陽に当たりかすかにうすく光っていた。こうして間近で見ると、普段感じていたよりも睫毛が長いことがわかる。
「珍しいわよね、先生がこんなところでうたた寝なんて」
ふと奥の棚からメルセデスがひょっこりと顔を出してこちらに微笑んできた。いたのか、と口に出せば『お料理の本を探していたの』と細い手が数冊の本を胸の前で掲げる。そんなものまであるのかこの書庫は、と内心で感心しているなか、メルセデスはゆっくりとこちらに歩を進め俺の横で立ち止まった。
「先生、お疲れなのかしら。よく寝てるわ
」
「教師としての職務は肉体的にも精神的にも疲労が伴うだろうからな。疲れが出ても無理はない」
「そうねえ。いつも私たちのためにたくさん頑張ってくれてるものね」
ふふ、と目を細めて先生を見やる彼女の視線には慈愛と敬愛が籠っていた。自分にとって好意的に思う人物がこうして慕われている様を見るのは決して悪い気がしない。彼の日頃の行いの賜物だ。メルセデスはしばらく先生のつむじのあたりを見つめていたが、少しした後に突然ああっと声をあげて眉を下げた。
「私、これからアッシュにお料理を教えてもらうんだったわ
。本を取りに来たのもそのためだったの」
「そうなのか。それは早く行ってやらないと」
「ええ、それじゃあまたねディミトリ」
ひらひらと手を振りながらメルセデスはにこやかに書庫を後にした。
「なあ、あんたは女神を信じてるかい」
隣に立った少年が不意に私にそう言った。確か彼はリーガン家の嫡子、盟主の孫のクロードではないか。飄々とした彼の態度はまさかそんなたいそうな身分の人間などには見えやしないが、実際は一国を左右する鍵のような人物だ。てきとうな態度を取るわけにもいかず、私は当たり前を通り越したある種滑稽な質問に対して至極真面目に返答をした。
「それは勿論、信じています。なんといったって私はセイロス教の騎士団なのですから」
当然の返事を受け、彼は何故だか不満げな顔を見せた。ふうん、と呟き目をすがめ、つまらなさそうに私を見つめる。
「女神は素晴らしいとみんな口を揃えて言ってるが、誰もその存在を見たことはない。本当に見守ってくれてるとあんたは思ってるのか?」
「ええ。そう教えられてきていますし。女神様は確かにいらっしゃり、我々を天からお導きくださっていると考えていますよ」
「お導きねえ」
どうにもおかしな言い草である。仮にもフォドラに身を置く人物、しかも同盟の中心人物が、一介の兵士相手にこんなにも不信心を露わにしていてよいのだろうか?誰かに聞かれでもすれば大変な事態に陥りそうなものだが。それでも彼は話を止めない。
「あんたはさ、考えたことは無いのか?女神がいない可能性。それか、女神の他に神がいる可能性」
「あるわけがないでしょう。女神様はこの大地に存在する唯一無二のお方です」
「その根拠は?」
「それは、……」
そこで言葉に詰まったことに、自分でも驚いた。なぜ言葉に詰まる必要がある?根拠などあるに決まっている、なぜなら女神は……。……女神は、いかなるときも我々を救ってくださったのだから。天より雨が降るのは女神様のおかげで、それにより作物が育つ。それを子供達が食し、成長し、いずれ国を守る騎士や人々に食材を届ける商人になる。そうして営みは作られていく。その元の始まりは、天より雨を降らせたもうた女神様だ。そう、子供の頃から教えられてきたのだから。私の認識のどこに間違いがあろうか?……彼の緑の瞳はじっと私の答えを待っていた。
「……失礼ながら、雨が降るのはなぜかご存知で?」
「雨?さあ、俺は知らないな。空をじっくりと観察でもできたら解き明かせるのかも知れないが、何せ確認する術がないからなあ。……なんで確認する術がないんだろうな?」
「……?何を仰っしゃりたいのか、よくわかりませんが。ともかく、雨は女神様が降らせてくださるのです。女神様のおかげで我々は作物を育て、食し、生きてゆくことができる。フォドラに暮らす民ならばご理解しておられるかと思っていましたが」
「おっとそりゃ失礼、浅学なもんでね。……女神様が、雨をねえ。本当に全能なお方だ。はは」
クロードのこと勝手に恨むモブになりたいよね〜みたいな…アレ(?)
「はは、やっぱりこりゃあいいもんだな。いちばん手軽かつ気が晴れる」
自分の腕の下でクロードが笑いながらそう言った。額と首筋には汗が光り、その頬は紅潮している。潤んだ瞳は愉快だという感情を隠そうともせず細められていた。
「あんたはどうだ?ちゃんとすっきりしてるかい」
「……さあ」
「おいおい、自分のことだろ。本当へんなとこで抜けてるなあ」
クロードの少し潜んだ笑い声が部屋の中に小さく響く。透き通るような翠色はからかうようにこちらをずっと映していた。
「先生」