図書室で本を読んでいるときの百田くんはとても静かだ。それが漫画であっても学術書であってもいつも多大な集中力を目の前のものに向かって注いでいる(さすがにいやらしい本を読むときは僕と騒ぎながら読む)。その利発をはらんだ眼差しが珍しくてたまに横顔を観察してしまうのだけど、気づいているのかいないのか百田くんはいつも特になんの反応も示さなかった。今日も隣で黙々と読書をする彼の表情を少しの間眺めたあと、僕は読みかけていた推理小説を開く。今までのペースで考えればちょうど今日で読み終われるはずだ。忘れないうちに読んでおきたかったからちょうどよかった、と挟んでいた紐をたどり、薄黄色のページを開いて物語の世界へ思考を潜らせていく。一度こうして集中してしまえば図書室独特の埃っぽさなどもあまり気にならなくなって、むしろ居心地がいいくらいに思えた。すぐ隣で規則的に紙の捲れる音が聴こえてくるのも立派な環境音の一部になっている。
しばらく小説を読み耽り、ページも残り少なくなった時だった。実は、ほんの少しくらい前からだろうか。なんだか妙な感じがしている。おそるおそる目を活字から離し隣を見ると、案の定まっすぐこっちを見つめていた瞳とぼくのそれがばっちりとぶつかった。やはり気のせいではなかったのか。
「あの……どうしたの?」
隣のページを捲る音が途中から途絶え、僕のほうにいっそ無遠慮なほどの視線が向けられているのをさすがに気がつかないふりで誤魔化すのは気が引けた。なのでそうやって百田くんに一言を問いかけてみると、彼は「ああ」と短く呟いてから持っていた本をパタリと閉じる。そしてそれを片手に持ち、空いた手をなぜか僕のほうに伸ばした。何をされるのかまったく予想がつかない状況だったからだろうか、その指が僕に触れるまでのこの時間、やたらと時の流れが緩慢であるような気分になる。僕をじっと見つめる百田くんの瞳は静かで穏やかで、そこに強い色は認められなかった。それでいいに決まっている、と思う反面、胸に風が吹くような思いがする。
やがて百田くんの指は、僕の前髪を持ち上げ額に触れた。急に視界がぱっと開けて思わず目を細める。目の前の顔は新しい発見をした子供のようににこりと綻んだ。
「下まつげだけじゃなくて上のまつげも長ーんだな、と思ってよ」
そう言うと彼は満足気に手を額から離す。下りてくる前髪に気をとられている間に「邪魔して悪かったな」となんでもないように一言を寄越された。少し髪を押さえて整えてから百田くんに何か言おうとして、でも特に思いつかなかったので言葉の代わりに苦笑を浮かべる。
「オメー、けっこう前髪上げても似合うんじゃねーか?」
さらりとそう言われ、どう反応していいかわからず僕は引き続き曖昧に笑った。上げてると落ち着かないんだ、と返しながら少しずつおさまっていく鼓動の速さに安堵する。この本を読み終えるのはまた次の機会になりそうだな、とひとり考えながら、むずがゆく残った感覚を散らすためにこっそり額を手の甲で軽く擦った。

後日、朝食の時に茶柱さんが「おでこを出した夢野さんはかわいい」という話題を持ち出してきた。なんでも夢野さんを部屋に迎えに行くと寝癖で前髪が跳ねあがっていたらしい。夢野さんは照れくさそうかつ迷惑そうなとても微妙な顔をして興奮する茶柱さんに制止の言葉を投げている。いったい夢野さんの前髪はどういう状態だったのかとすこし気になりながら端で会話を聞くのに徹していると、ちょうど茶柱さんと席の近かった百田くんが何故か得意気にこう言い放った。
「終一もな、前髪上げてもなかなかカッコいいんだぜ」
興味ありませんよ!と叫ぶ茶柱さんの声を聞きながら、僕はおそらく今夢野さんと同じような顔をしている。