オステレ未完(TOB)

「あなたが好きです」
いつも任務で素泊まりするような宿とは比べ物にならないくらいの豪勢な一室で、お酒の入ったグラスを片手にオスカーは呟くように言い放った。彼は今日付けで20歳になったばかりで、お酒の味も今日初めて知ったところだ。「思っていたより美味しいです」なんて笑っているけれど、本当は背伸びをして余裕を見せているだけではないかしら。と、微笑ましい意地を弾む気持ちで見守っていたところで発された、本当に不意の一言だった。グラスの中で氷が崩れて、随分けたたましい音を立てる。どんな言葉をかけていいか、どんな顔をしていいか、何一つ分からなかった。今私は、この子の何であるべきなのか。理という重くて大きな一文字が頭を掠める。
オスカーはしばらくの間机の木目を視線で辿っていたけれど、やがてはっとしたように目を見開いて勢いよく顔を上げた。私の瞳を見つめる眼差しはばつが悪そうに瞬いている。姉上、と、上擦った声が私を呼んだ。
「すみません」
謝罪がひとつ。その後またすぐに、視線は落とされる。その手のグラスからは水滴が垂れて、机に点々と染みを作っていた。私はどうしてか、いえ、どうしても。場違いな感情、切ない気持ちばかりに苛まれる。
この子の想いは神にも理にも世界にも、何にも許されはしない。この子は、私だけは愛してはいけなかった。聡明な彼ならこんなことはとっくに分かっているはずで、だから言うのだ、「すみません」と。理がこの子をどれだけ苦しめてきたのだろう。今の今まで気づいてあげられなかったという事実が情けなくて、拳を強く握る。私はこの子のたった一人の姉だ。姉なのに。
何より許せないのは、私が弟の謝罪に安心を抱かなかったことだった。「好きです」というその一言でこんなにも胸を高鳴らせ、泣きそうなくらいに喜んでいることだった。今日この日に、こんなに豪華な宿に二人で泊まろうだなんて言われて、私はずっと浮かれてしまっていた。私はこの子の姉だ。二人の何よりも大切な繋がりを、私はその一言まで忘れてしまっていた。
「本当に、すみません。姉上」
絞り出すようにオスカーがまた謝罪を述べる。涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。お願いもう謝らないで、夢を見てしまっていた私がすべて悪いのです、どうかもう謝らないで。いろんな言葉が頭を駆け巡ったけれど、何一つ口にすることは出来なかった。オスカーが何度か言葉を逡巡させてから、続きを紡ぐ。
「……もっと、きちんと言うつもりでした。指輪や花束も用意していたのですが、こんな唐突に……すみません」
「……えっ?」
予想外の台詞が聞こえて、俯いていた顔を上げる。向かいの弟はその可愛い顔を耳まで赤く染めていて、むずかしそうに眉間に皺を寄せていた。

モブぺご(P5)

「君、ちょっといいかな?」
振り向いた男子高校生の睫毛の淵が震える。怯えさせてしまっただろうか?いや、出来うる限り紳士然とした言い方を心がけられていたはずだ。
癖の強い黒髪、長い前髪にも関わらずさらに隠すように付けられた大きめの眼鏡の下で、こちらを見定めるような双鉾が動く。射貫くように私を見ている。猫のような少年だと思った。
「急に声をかけて済まなかったね。私はとある芸能事務所の者だ。まあこれはスカウトみたいなものだね」
名乗ろうとも彼が纏う警戒の色は薄まらない。むしろ、より濃くなったようにも見える。いちおうきちんとした身なりをしているつもりなんだが、やはり胡散臭いだろうか。
胸元から名刺を取りだし彼に渡そうとすると、閉じられていたその口がふいに開いた。
「何が目的でしょうか」
想像よりも低い声にさらに関心を抱いたが、問題は声ではなく内容だ。何が目的だ、だなんて凄い子供だ。警戒心を隠そうともしない。
別に私は彼が思うような怪しい輩ではない。ただ嘘はついている。彼はモデルに推すには随分地味だ。売れることはないだろう。ーー彼の魅力は分かるものにしか分からない。だからこれは、スカウトを口実にしたいわゆるナンパだ。……そう思うと、彼の思うとおり私は怪しい輩なのかも知れない。
「君と少し話がしたいんだが、お茶でもどうだろうか」
名刺を差し出し微笑む。彼は私の手をじっと見ていた。その目だ、それが良いと思う。私はその目に奥まで見定められたいのだ。
初めて彼を見たのは満員電車の中だった。彼は鞄をしっかりと抱きかかえ、一つの場所で縮こまっていた。抑圧や辛抱という言葉の似合う様子の彼は、何かに強く憤っている風に見えた。やけに反抗的な眼差しは彼を構成する他の全てとちぐはぐで、私は目が離せなくなってしまった。
それからだ、私は毎日彼のことをバレないように見つめていた。そして今日、ついにこうして声をかけるに至った。彼が泥のような目で私を見ている。大人しそうなその容姿からは想像もつかない程凶暴な瞳は、やはり私の胸を打った。間近で見るとますます分かる。
「すみません、遅刻するので」
やがて二人の間の静寂を打ち破り、彼はそう呟いた。ふいと後ろを向いて歩き出してしまう。追いかけようかと思ったが、鞄の中から急に猫が顔を出してこちらを威嚇したのに面食らい足を止めてしまった。それに、彼は全身すべてで私を拒絶していた。
私は押し寄せる後悔にじっと耐えていた。分かっていたことだ。彼に認識してもらいたいなどと考えることのおこがましさなど。それにこれではまるで犯罪だ。けれどそれでも、私は彼の視線を浴びたかった。きっとあの目に、すべて盗まれてしまったのだろう。
「おいリーダー、不気味な男だったな今の奴。警察の関係者じゃないよな?」
「うん、多分違う」
「何だったんだろうな」

龍アソ未完(大逆裁)

「じきに夜だ」
そう言って洋箪笥を開けた亜双義は、ぼくを静かに見下ろしていた。急に入った光が眩しくて、表情がよく見えない。目を細めながら頷いて、先刻まで閉じていた目をゆるく擦った。
「寝ていたのか」
「まあ、少しだけ。やることもないしね」
小さく笑いながら腕を伸ばす。亜双義は黙りこくって、ふいと頬を横に向けた。
「済まない。キサマにはずいぶん無理を強いている」
「……あっ、いやいや、そういうつもりで言ったわけでは」
ないんだけど、と慌てて言うものの言葉尻をすぼめてしまった。参った、寝起きで頭が働いていない。亜双義の口元が数回迷うように動いて、やがて「成歩堂」とぼくの名前を呼んだ。
「後しばらくはこういった生活が続くだろう。……オレについて来たことを、後悔はしていないか」
唐突に殊勝な言葉を投げられて、ずいぶん驚いてしまった。楽しげにぼくを洋鞄に詰めていた姿が偽りだったようだ。光の隠れた眼差しをぼくに一心に向ける姿は迷い子のようだった。ーーああでも、こいつはたまにこういう目をする。

主喜多未完(P5)

結局、怪盗団は班目一流斎を改心することはなかった。彼の個展は見事成功を収め、たくさんのテレビ局が彼の作品の多様性・独創性を様々な形で褒め称えていた。杏と竜司には個展終了の日以降顔を合わせてはいない。勿論、祐介にも。あれから一度も会ってはいなかった。
夏も終わり掛けに差し掛かったある日、例のあばら屋の前に立つ。きっとここにはまだ班目と祐介が住んでいるのだろう。以前と何一つ変わることなく、当たり前のように。班目は祐介を養い、祐介を殺している。すべて理解したうえで、チャイムを深く押し込んだ。しばらくの間のあと、引き戸が慎重に開かれる。少し青みがかった髪、線の細い体。ああ良かった、目当ての男だ。
「どちら様で、……!」
祐介はひゅうっと息を吸い込み、目を大きく見開いた。すぐさま戸を閉めようとしてので、手を差し込んでそれを食い止める。おぞましい物でも見るかのようなその瞳、とても素直でいい。
「今更何をしに来た!」
「決まってるだろう、宝を盗みに来たんだ」
「戯言を!お前は宝を盗まなかった、……何も変えようとしなかった!」
絶叫のような祐介の声が住宅街に響く。様子からして班目は家にいないのだろう。女を住まわせている別荘にでも遊びに行っているのかもしれない。そしてきっと祐介もそれを知っている。
「祐介、聞いてくれ」
「消えろ、俺の目の前から!」
喚く祐介の手を強く握る。祐介の体がびくついたのがはっきりと分かった。
初めてその姿を目にした時から決めていた。俺はこの男の作品になろう、そうして生涯を終えようと。この日をずっと待ち望んでいた。そのために仲間も、祐介も見捨てた。けれどお前はこれから俺が掬うのだ。

主モナ未完(P5)

真夜中、傍らに置いたスマホがブブブと振動した。浅い眠りから覚め、スマホを手に取り電源ボタンを押す。脇で眠っていたモルガナもスマホの明かりで起きてしまったようだった。
「何だよ、こんな夜中に」
確認するとチャットが一件入っている。明日どこかに行こうという、ストレートに言えばデートの誘いだった。明日は確か誰との約束もなかったはず、と了承の旨の文字を打つ。いざ送信というところで急にモルガナが勢いよく起き上がった。
「は!?オマエ忘れてんのか!」
「えっ、何が」
「明日はワガハイのブラッシングをするって前から言ってただろーが!」
毛を逆立てるモルガナを前に必死で記憶を探る。そういえばこの前、寝る直前にそんなことを言われたような気がする。あの日はジムに行った後で疲れから倒れるように眠ってしまったのであまり覚えていなかった。
「ごめん、約束してたな。……覚えてないけど」
「覚えとけよ!」
べしんと叩かれたが痛くはなかった。そういえばモルガナに爪を立てられたことってないな、優しいな。
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