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「せんせ」
猫撫で声でそう呼ばれた瞬間、私はこの事態の理由や原因、すべてを理解した。夜の体育倉庫は光のひとつも差し込まず、だからカメラのフラッシュが死ぬほど眩しかった。あと、静寂の中にカシャっと響くシャッター音はやけにうるさかった。私はカメラがあるほうに顔を向けて、その後すぐ目の前にいる上半身裸の教え子の瞳を見据えた。彼はにこりとやたらに美しくほほえみ、彼の胸に這わせている私の手をぎゅっと握る。ああ、なるほど、と私がつい口からこぼすと奴は少年らしい笑い声を漏らし、そこからすぐ獲物を狩る動物の目で私を見た。
「これで先生、明日には全校生徒公認の変態ホモ野郎だね」
その語尾には確かにしっかりとハートマークが付属していた。ああ、これは忘れられない夜になったなと、私は心底思うのであった。
思い出が欲しいと懇願されたのはつい先週の話だった。あと3ヶ月程で卒業してしまうから、最後に大好きな先生との思い出が欲しいのだと。とはいえ彼も私も共に男であるし、私は彼のそこまでの想いに応えられそうもなかった。だから一度断りはしたのだが、彼はどうしても先生がいいと泣きわめき、寝てくれないと死ぬとまでのたまう始末だった。さすがに私も心折れ、では一度だけ、と了承してしまったが最後。結果的に私はどうやら生徒を襲う変態教師としての現行写真を撮られてしまった、と、状況からすればそう言えるらしい。つまり、このクソガキにすっかり騙されたというわけだ。まあそんなところだろうとは思っていたが、それにしてもこいつには腹が立つし、あとこの写真をばらまかれれば確実に私の社会的信用は地に落ちる。さすが最近の子供は頭が良いというか、あー、どうしよう。クビかなあ私。
「何が望みだい」
「わかってるくせに」
お金に決まってるじゃない、せんせ、と奴はブリブリした仕草と声色で私を脅迫する。こういう、大人の優位に立つことによって大人なんて自分の足下にも及ばないだとか勝手に思っているガキが私は世の中で1、2を争うほどに嫌いだ。私は大きく嘆息しつつ胸元をまさぐり、流れるような動作で財布を取り出した。
ーーーー
「家庭環境が悪いのか?」
「え?」
私から現ナマ諭吉2枚を奪い去った生徒、吉村は用が済んでもまだ帰ろうとせず、体育倉庫の鍵を閉めている最中の私の横に少しにやけながらつっ立っていた。おそらく私の惨めっぷりをより強いものにしようと、傷を抉るためここにいるのだろう。腹は立つが力ずくで帰そうだなんてしようものならどんな噂を流されるかわかったものではない。それに、こんなことで心が折れるとこいつに思われては非常に癪だ。質問された吉村はクエスチョンマークを頭上に浮かべ、不思議そうにどういうことですかと私に問い返す。
「いや、なんで脅してまで金が欲しいのかと思って。君の家ってそんな貧乏だったの?」
「いえ、そんなことはないです」
ふつうの家ですよ、と吉村は答える。父親はサラリーマンで、母親はスーパーでパートをしているそうだ。確かに特別貧乏というわけでもなければ裕福というわけでもないらしい。ということはやはり自分の力の誇示のために人を脅しているという線が濃厚か。私に対する彼の手口を見る限り脅し慣れているようだし、私のような薄幸な彼の餌食は想像以上にたくさんいるのだろう。と、ここで吉村は突如僕に語りかけた。
「先生、僕ね、男から見ても顔が綺麗じゃないですか」
「…え?ま、まあそうだね」
「女の子からもけっこうモテるんですけど、男にも5:5くらいでモテるんですよ」
「あっ、はい…」
「それでね、ある月に僕おこづかいを月の始めに使い切っちゃいまして。その月は同級生の女の子にも男の子にも大人のお姉さんお兄さんおばさんおじさんにも協力してもらってお昼ご飯代なんかを凌いだんですよ。あ、そのときは脅迫なんてしてませんでしたよ。みんな親切でありがたかったです」
「…君、広範囲にモテるんだねえ」
「それでですね、たくさん奢られてるうちにわかったんですよ僕。やっぱり一番お金持ってて僕なんかに貢いでくれるのはおじさんが圧倒的に多いなって。それでまあ、世の中のおじさんたちに夢を見させつつお金を稼ぐ方法を思いついたんです」
「…まさかそれがさっきのあれだと?」
「一瞬でも夢見れたでしょう、先生」
「…ひっどい話だなほんと」
先生(攻)のことを脅迫対象としてしか見てなかった生徒(受)が先生でシコれるようになるとこが書きたくて書き始めたはずだった
「兄さん」
妙になまめかしい声色はまるで別人のそれのようで、15年も傍にいた弟のそれとはとうてい考えられなかった。けれど、現実は俺の思考どおりには動かない。ルドガーはこうしてきちんと俺の前にいて、俺に侮蔑にも似た薄紅色の感情をむき出しにしているのだ。いつもはユリウスと呼ぶくせに、今日に限って身内の血を濃く感じさせたがる。いつからそんなことをするように、いや、できるようになったのだろう、この子は。
「俺のこと好きなんだ」
確信の槍は容赦なく俺の胸をぐさりと突いた。拳を握りこみ、歯を噛みしめる。目の前の弟の目に映るのは、愉快だといわんばかりの快楽のようにも見えた。ああ気持ちが悪いと、吐き捨てようか迷っている。まるで手綱を握られているようだ。
兵部「飯はまだかなあ…」真木「一昨日食べたじゃないですか」兵部「毎日喰わせろ」
「ごらんよ、あの空を。夕焼けによく似ているけど、あの空全体が隕石なんだ。みんな笑っているけど、みんなもうすぐいなくなるんだよ。君はそれでも僕のこと、愛してるだとか言えるのかい?」
足立さんはそう言いながら空を指さしたが、俺は空を一瞥すらしなかった。だって、今はそんなことより横にいる足立さんのことを見つめていたかったから。綺麗ですよと俺が言うと、彼は何か言い返そうとして、けれど口をつぐんでしまった。
菜々子が入院したんです。ああもうそんな時季か、ああもう何回目だって感じですよね。しかも陽介たちはついさっき生田目をテレビに落としました。俺、怖くなって、その場からすぐ逃げ出しちゃったんですよ。そう話す俺の声に、足立さんはただ耳を傾けているだけだった。ねえ足立さん、と俺は彼に問う。これっていったい何回目でしたっけ。覚えてます?
「88回目」
足立さんは抑揚のない声でぽつりとそう言った。88回目。そうなんですか。覚えていたんですね。俺は驚いて、それから悲しくて、次に感動した。
「僕のこと、ずっと介護してくれよ」
なあ、と猫なで声で兵部は僕にそう絡んでくる。上気した頬とすこし下がった眉、それとだらしなく緩んだ口はなんだかいつもの兵部よりもすこし雰囲気が違った。どうやら僕に甘えているらしい。僕の膝に頭を乗せてこっちを見上げてくる兵部は、首を撫でればごろごろという音でも聞こえてきそうなものだった。深淵に染められた瞳が、ちいさく熱を持っているのがわかる。いつもにやにやといやらしい笑みを浮かべて僕をからかいにくる兵部よりは今のほうがいいかもしれないけれど、これはこれでひどく調子が狂うなあ、と思った。
「なんだよそれ」
「いやあ、年寄り流のプロポーズってやつ?」
「ぷ、プロポーズって…」