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左手にがっちりはめられた腕時計を見やっても、電車が来るまでの時刻にはまだまだ到達しそうになかった。まばらに人が存在するホームの人々は皆個々の事情に精一杯で、お互い干渉することはない。塗装が剥がれかけた赤いベンチには、なぜか井戸端会議を始めるおばさんたちや、これからデートにでも行くのだろうか、きらきらという効果音を散りばめたいぐらいにおしゃれをした女の人が携帯の画面に目を落としながら腰かけている。その女の人に負けないぐらいめかしこんでいるボクも、彼女の線上に座る一人だ。前述の浮かれ気分な両者とは打って変わって、物憂げにはぁ、なんてため息をついている。たぶん今のボクは周りにきのこでも生えているように見えるぐらいじめじめとしているんだろう。だって、こんなに寒いホームに30分もいたら、そりゃあ気分も落ちてくるよ。まあボクの自業自得だけれど、それでもやっぱり今日の寒空を恨んでしまうのだ。こんなに懐の狭いボクを見たら、彼はボクを嫌いになっちゃうかなあ。呆れる止まりでいてくれたら嬉しいんだけど、彼がボクをどれくらいの気持ちで好きでいてくれてるのかがわからないから、なんだか不安になってしまう。ああ自分でもわかってるよ、ボクって本当面倒くさい男だ。もっと彼に見合うように男らしくなりたいのに、いつも女々しく考えこんでる。愛想尽かされるのも時間の問題だよね。アツヤ、いつまで経っても女々しい兄ちゃんでごめんね。これじゃあアツヤを安心させられないよね。胸中で呟くと、風に運ばれて聞こえてくる小さい頃の弟の声。兄ちゃんもっとしっかりしろよ、と常にボクを叱咤していたアツヤの言葉が記憶の奥底から掘り出された。そうだ、弱気になってちゃダメだ、自信を持っていかないと!いつまでもうじうじしてたらみっともないし!ばちんと両頬に一発張り手を食らわせれば、すぐさまひりひりと襲ってくる痛覚。冷え切ったほっぺたにこれはかなり効いた、正直すごく痛い。きっと赤くなっているんだろう頬を軽くさすりながら、ちょっと強くやりすぎたなと反省した。ああ、あんまり張り切るとうざったいと思われるかもしれない…。うう、やっぱり帰結するのはポジティブ方面よりネガティブ方面。こんなに悩んでしまうのは自分の元々の性格も起因しているだろうけど、ボクの身を冷やし続けるこの寒空も原因の一端を担ってるんじゃないか、なんて思ってまたもや空にガンを飛ばす男子中学生がホームに約一名。けっきょくボクはまたなんの罪もない寒さを憎んでしまってるわけだ。貧相な思考回路と下手したら広辞苑を超える厚かましさに自分でもため息が漏れ出る。早く迎えにきてよ、特急電車に乗った王子様。ボクそろそろ地面に転がって生まれた摩擦熱で暖をとりそうだよ。桜よりも一足先にボクの頭が春を迎えちゃいそうだ。何より君に会いたくて会いたくて君に焦がれてたせいで、ボクの心はもう丸焦げなんだよ。どす黒くて、醜いんだよ。やっぱり遠距離恋愛なんて、ボクには無謀だったのかなあ。たった1ヶ月離れ離れになっただけでこれなんだもん、先が思いやられるよ。それに比べて君は寂しいなんて一言も告げずに、週3ペースで東京での近況なんかを短く綴ったメールだけ送ってきてくれるよね。
「きょうね、近所のおばさんにほめられたよ」
「あんたが死ねばよかったのに」
堂島家の畳は寝心地がいい、そんな割とどうでもいいようなことを僕は今知った。顔を横に向ければ視界に入る机の足には、恐らく今より小さい頃の菜々子ちゃんが描いたと見られる落書きが点在している。おとうさん、おかあさん、ななこ、と覚えたての字で絵の横に乱雑に書かれたそれからは家族の暖かさをひしひしと感じ取ることができた。しかしそれに意識を注いでいる場合でもない、残念ながら。素敵な家族愛の証を眺めて微笑むことは、この状況下ではできそうにもなかった。だというのになんとかして現実から目を背けたくなるのは、満面の笑みで僕の上に乗っかってるこいつのせいだと声を大にして言いたい。いやもしかしたら本当に大声を出すべきなんだろうか。だってこの態勢って明らかに、あれじゃないか。僕、襲われる5秒前じゃない。
王子様はお姫様を迎えに来るのよ。息を切らして、切羽詰まった顔をして、汗をぼとぼと垂らしながらお姫様のために必死になって走って来てくれるの。それを確認したお姫様は、捕らえられた鳥かごの中から出したこともないような大きな声で叫ぶの。王子様、来てくださったのねって。2つの目に涙を浮かべて、口元をゆるゆる綻ばせて、喜びに満ち溢れた笑顔で王子を呼ぶの。