虎薔薇(TB)

9歳の娘がいる。妻は5年前に他界した。きゅうさいのむすめがいる。つまはごねんまえにたかいした。ぐるぐるぐるぐる、同じ言葉が頭の中を駆け回る。ええ、ええ。わかってたつもりだったわよ。左手の薬指にはまった指輪の意味、とか。子供に慣れてそうだ、とか。そんなのもうとっくに。何回も考えてたわよ。何回も何回も、なんかいも、なんかいも。あの歳なら妻と娘がいたってぜんぜんおかしくない。でも、なに、死んだって。別れたならまだしも、死んでるなんて。死は鎖。死は人をぎちぎちに縛り上げて一つの生涯が終わるまで解放することはない。そんな言葉をどっかで聞いたことがある。あいつだってそうよ、一生を喜んで縛られるんだわ。ばかみたい、ほんとばかよあんなやつ。ああなにこれもうばっかみたいだわたし。それでも好きだなんてほんと、ほんとうに。ばかもほどほどにしたいわよ。

足立独白(P4)

ぼわあ、耳の上に膜が張られたみたいな気色悪い感覚。僕を取り巻く喧騒が一気に自身から遠のいた。乖離したざわめきと地上への固定感はふわふわと空に飛んでいって、大空の中でのびのびと翼を広げているように思える。それに反比例して僕は羽をもぎとられた鳥のようにただ為すすべもなく立ち尽くしている他ない。おい足立ィ、とどこかで堂島さんの声がした。ああなんてタイミング。お願いですから今は話しかけないでくださいよ。なんて主張するのさえ煩わしいと感じさせてくれるこの感覚が本当に殺意が湧くほど憎たらしい。今行きます、となんとか絞り出した声は鼓膜で2、3回バウンドした。立体音響みたいなこれも相当気持ち悪くて大嫌いだ。そのうち聴力を自分自身で独占して、僕の声しか聞き取れなくなったらどうしようか。目だって、鏡に映った自分しか捉えなくなったらどうしようか。あれ、もしかしたらそれはそれで素敵なことなんじゃないか。ふと僕は僕に問いかける。だって面倒事に対して耳を目を塞ぎながら生きていけるんだから。素晴らしいことじゃないかと奥底の俺が返事をした。ああでも綺麗な女は視界に入れたいもんだ。やっぱりこんなものはごめんである。何してんだ足立ィとまた堂島さんからのコールがかかる。耳をつんざくようなそれに膜はぱっと取り払われた。すいませーんと返事をして頭を下げながらすたこらさっさと駆けていく僕の人生は今日も今日とてクソである。

兎虎(TB)

「あなたがいないと生きてけません」

甘い甘い台詞が俺を取り巻いた。鼻膣をほんわりとくすぐるホットケーキの香りにメープルシロップをプラスしてさらにほわほわさせようとしたらこれだよ、おまえのばかみたいな言葉のおかげでシロップいらずの甘さになりそうだ。ごめんなおじさんそこまで甘党じゃないからもうそういうのお腹いっぱいなんだよ。

「あなたがいないとだめなんです」

うんそうかい。返事はそれだけでじゅうぶんだろう。俺がおまえに朝飯を作れるのは今日だけだし、意外に甘えたなおまえの駄々に付き合えるのも今日だけだ。おまえんちのフライパン使ってホットケーキ焼くのももうこれっきり。まあおまえの世話はこれからも焼くけどな。コンビとしては当然だろう。

「僕が朝ごはん抜きでお腹空かせて出勤してもいいんですか」
「そんときゃコンビニ行って弁当でも買ってきてやるよ」
「コンビニの弁当は好きじゃありません」
「んじゃ携帯食」
「朝昼同じもの食べろって言うんですか」
「わがまま言ってちゃモテねーぞ」
「あなたしか興味ないからいいです」
「ばっかだなあバニーちゃん」

おまえはまだ女のあたたかさを知らねーのかい。あんなにあったかいもんをおっさんに求めるのは酷な話だぞ。ワイルドタイガーさんは最近冷え性だしな、そのうちおまえまで冷ましちまうのがオチだよ。な、かなしい終わりしか見えないだろ。

「なんで決めつけるんですか、あなたのそういうとこ嫌いだ」
「おうおう嫌いたきゃ嫌いなさい」
「うそです嫌えません」
「めんどくせーなあバニーちゃんは」

ぴかぴかの白い皿にホットケーキがぱたりと乗る。その上にしかくいバターを背負わせて、真っ白いテーブルに二人ぶんをそっと置いた。ほら、朝飯できたぞ。そう声をかけた俺の背中にかけられたのは、蚊がなくみたいに小さいひとこと。やっぱり僕じゃだめなんですね、だって。うん、おまえじゃだめなんだよ。俺は薬指にはまった指輪がまだまだ大切なんだ。


どう考えてもイカ臭いことした次の日の朝
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