おかーさんまとめ
前記でのおかあさんの話
年末まとめが義母の話題で持ちきりだったので、とりあえず最後までやりきったのでまとめてみました。


6月末から癌のおかあさんと同居を始めて半年、ついにお別れをしました。
それまでの話。

一応ナースの私としては早くて年内最後まで、遅くても春の予想でいてうまいことその範囲に収まってしまったのがなんとも薄情な嫁な気がしてました。

6月に一緒にがんセンターに行き、縋るように抗がん剤治療を希望し続けた義母。
2回目からは自分で電車とバスを乗り継いで通院し、帰りはららぽーとで買い物を堪能してた義母。

それが10月に肺炎で入院。
癌なのか抗がん剤なのか原因は分からないけど体が限界を迎えての肺炎。
もちろん抗がん剤はもうできなくなり在宅酸素を導入して退院。

11月には初孫の七五三の記念撮影に泊りがけで出掛けても元気そうにはみえた。
正直酸素は持ち歩いてたけどそんなに自由に歩けてたから。
けど酸素を持っての1人での外出は心配となり旦那が車で通院の付き添いに行くようになった。

11月の終わり最後の日に行った病院。
定期の通院でまさかの転倒。
車から降りる際に真横にたおれたと。
強い痛み止めを飲んでいた義母、転倒の痛みなんてたいしたことないと診察は受けずに帰宅。
徐々に足が上がらなくなる。
週明けに近くの整形にかかるも湿布のみ。翌日に動けなくなった。
結果、骨折してた。
もうね、なんとなく分かってた。
そりゃ折れるって。癌の強い痛みを抑える薬飲んでるんだから骨折してても痛くないって。

入院翌日には手術してすぐ歩行訓練を開始。
本来なら2ヶ月の入院治療の中、末期の状態のため3週間での退院となり往診と訪問看護を導入。

年末に退院しました。
28日に無事に帰宅。
感染の時期で子供は病院に入れないので私はほとんどお見舞いには行かなかった、行けなかった。
帰ってきた時の義母は元気だと言ったが痰が絡み呼吸が荒かった。
明らかに肺の状態が悪くこれで退院してきたのは信じ難かった。
固形物は喉を通らず、食べてないせいか自力で立ち上がりが出来なくなっていた。

退院した日に往診と訪問看護がきて今後の話をした。
うちは義母の希望のままに。
とりあえず自宅で過ごして最後は緩和病院へと。

29日。義母と子供達と四人で過ごした最後の日。
午後はリビングの椅子に腰掛けて一緒におやつを食べた。
ほんの一口だけど一緒に。
その翌日の昼。
呼ばれて行けば息が苦しいと。
恐れていた痰詰まり。
水分もほとんどとっておらずドレナージも加湿も効果なく意識が遠のく中で
死んじゃう 死んじゃう と小さく呟く義母。
救急車を呼び駆けつけた救急隊の吸引でなんとか窒息は間逃れた。
そしてそのまま緩和病院へ入院となった。

夕方に子供達と必要な荷物を持って病院へ行くと、もう頑張れないと泣く義母。
義母は春までは生きていけると思っていた。
誰もそんなことは言わなかったけど癌治療を諦めた時に緩和医に自分から春まではと話してた。
誰も肯定も否定もしなかった。

けどあんなに苦しい思いは初めてでもう頑張らないと決めた様子だった。
その日から点滴で麻薬を投与した。
苦しくないよう、痛くないように。
この日から旦那が病院に付き添うように

子供達は分からず元気だった。
翌日も子供達の顔を見せようと病院へ行った。大晦日の日だった。
義母は子供の声がうるさいといった。
もう限界なのかもしれない。
夕方には付き添いに来ていた義母の友達から連絡があった。
吸引も辛いからやめて欲しいと言っている。薬を増やしていくと。

私は子供達と3人で大晦日を、正月を過ごした。
正月なのに誰かが来てすぐ泊まれるように部屋の掃除をし、布団を干し、子供部屋を泊まれるように。

そして日付が変わって2日。
旦那からの電話。亡くなったと。
満月なのか窓から入る月明かりが眩しくてあまり眠れない夜の日だった。

朝の5時に旦那が帰ってきた。程なくして義母も。一緒に付き添っていた義弟いっしょに。
葬儀屋さんとはその場で打ち合わせをした。

義母は生まれ故郷の青森での葬儀を希望していた。
少しもめたけどお通夜を自宅でし火葬後に青森で本葬をすることになった。

入棺もお通夜も火葬も子供達にはよく分からない。
けど一緒に出来ることはした。
火葬の翌日、旦那は義母のお骨と一緒に新幹線に乗った。
私は雪の中子供を連れて行けないので実家にお世話になることに。

なんとなくよく分からないうちに終わってしまった。
おかあさんの希望通りになったのだろうか。
未だに分からない。


02/08 11:34
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