チョコレート

『コラソンの雨は主に平地に降る』
11月15日 00:25

訛りを矯正してほしい、と乞われたのは、登城してから数か月後のことであった。そしてそれは当人からではなく、周囲からの要望であった。
「コルツァ訛りを、直す?」
部屋に呼ばれたと思えば、告げられた言葉の意外さにゲルプの声が裏返る。
「ええ、思うところがありましてね。恐らく、直してしまった方が仕事上も楽でしょうから」
「…………」
「何か、問題でも?」
黙ったままのゲルプを訝り、ファルベがそう問いかけると。ゲルプはどこか不安げに小さく頷き返した。
「……そんなことが、可能なのでしょうか?」
その言葉を聞いて、今度はファルベが驚きを示した。
「……自分で直そうとしたことが?」
「えっ、あ……ええ……ですが、一向に直らず」
「そうですか……」
そう返したファルベの表情が僅かに緩む。それを見て、ゲルプは緊張しながら次の言葉を待った。
「方法さえ間違えなければ、修正は可能でしょう。大切なのは、癖で喋らないこと。単語の知識は十分ですから、訛りに聞こえてしまう音の部分を徹底して直せば良いのです。……準備はこちらでします。明日から始めていきましょうか」
「……はい」
「用件は以上です」
その台詞を聞いて、ゲルプは短く一礼すると部屋を後にした。廊下を行く横顔は、少しばかり嬉しそうであった。



矯正にさほど時間はかからなかった。元より訛りが弱かったのもあるが、無駄のない指導はひどく効率的であった。
「いやはや、すっかり変わってしまったものですな……」
そう言いながら、自分の音声にまた表情を綻ばせるゲルプ。
「新しい音を覚えるのは、謂わば新しい言語を覚えるようなもの。日々に繰り返していれば、容易いことです」
「そ、それは、ファルベ殿だからでは……」
「いえ。私もこう見えて昔は、読むのも書くのも苦手だったのですよ」
「……三つも四つも異国の言葉を習得しているあなたに言われても、説得力がありませんよ」
「そうですか」
積まれた資料や本を片付けていたファルベが、「失礼」と言って席を外す。ゲルプはその帰りを待つ間、紙の山に目を向けていた。
「……おや」
ふと、目に入ったのはかなり古びた一冊の本。表紙の文字で、辛うじて読み書きの読本だとわかる。どう見ても5歳程度の子供が使う代物。教授の間にももちろん、使われた記憶はなかった。
「子供用か……?」
手を伸ばして、薄汚れたそれを取り上げる。ぱらりと捲ったページを見た途端、ゲルプは「ヒッ」と小さな悲鳴を上げて本を取り落した。
「……な……なんだ……?!」
床に落ちた本が、ばさりと適当なページを開く。教科書の文字と書き込まれた文字の境が見つからぬほど、びっしりと並んだ文字列が露わになった。
「……ファルベ殿の、字」
幾らか拙いとはいえ、潔癖気味な筆跡はよく見るものと似ていて。ところどころの黒ずみは、インクとは違う質感をしていた。
「…………」
「どうしました?」
戻ってきたファルベが後ろから声をかけると、ゲルプは慌てて本を拾った。
「あ、い、いえ……片付けを、手伝おうかと思いまして」
「結構ですよ」
その時、ゲルプの持っていた本に気付くファルベ。ああ、と呟くように零すと、そのまま片付けを再開し始め。
「それは、私が12の頃に使って……」
そう言いかけたファルベが、ハッと顔色を変えた。
「……12の……?」
「……余計なことを、言」
「ああ、なるほど。12の頃には読み書きを教えていたのですか。さすがはファルベ殿……!」
ぽんと手を打ったゲルプに、刹那目を丸くする。それからファルベは、止まっていた片付けの手をまた動かし始めた。
「……まあ、そんなところです」
「謙遜なさることはないでしょうに……」
「さあ。せっかく綺麗な言葉を手に入れたのですから、存分に仕事に活かしていただきますよう」
その言葉を聞いてウッと返事に詰まりながら、ゲルプが愛想笑いで返す。そうして、黙々と片付けを続けるファルベを見て、ゲルプは静かに部屋を退出した。
「…………」
扉の閉まる音を聞いて、ファルベが不意に顔を上げた。
「……何故、あんなに気が緩んでいたのか……」
はあ、と溜め息を吐く。件の本を見て、呆れたように肩を竦めると棚へ戻した。



世に言う霊感というものも大して持ち合わせてはいなかったが、確かにその文字列には執念を感じた。
「まあ、知らなくても良いことが、きっとそこにはあるのだろうな」
ひどく綺麗になった発音で、ゲルプは独りそう呟いた。

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