★ 潜航少年 03
連日春を通り過ぎて夏へと向かう準備を始めている外の日差しが眩しく差し込む中を歩いて目的地へと進んで行く。もはや歩き慣れたこの通学路と、初夏の陽気になりつつある世間は、もう少しすれば梅雨と呼ばれる時期になるだろう。
そんな明るい世界を歩きながら、辿り着いた大学で自分で組んだ授業を淡々と受けて行く。スポーツ推薦だからといって座学がないなんてそんなわけはなく。もちろん単位もあるから勉強もテストもしなくてはならない。
高校とは明らかに規模の違う教室で、一人大きな教壇の上で授業をしている教授を眺めながら俺は手元のノートに視線を落とす。
片方は授業のノート。もう片方はここ一週間の悠夜による練習の記録だ。悠夜は普段ノートに適当にメモを取ってから後でまとめるのが癖だ。最近それが手書きから電子データになったことが前と違う事くらいで、元来几帳面な性格をしているので、まとめる目的で作られたデータはそれはもう長年バスケを経験してきた人間から見ても唸るものがあるらしい。
この大学に来る前に推薦の話を貰い、俺が悠夜の存在を持ちかけたとき、ここのコーチと監督は最初はかなり不審がっていた。もちろん三条悠夜という女はその界隈で有名なわけでもないし、選手でもない。だから知らなくて当然なのだ。
寧ろ知られていたら俺があの存在を独占的に活用するというのは恐らくほぼ不可能だっただろう。そう思う程に悠夜の指導力は目を見張る者がある。そう思ったからこそ俺は推薦の話を受けてまずその疑いの眼差しを向ける数名の大人に今まで悠夜が俺の指示のもと綿密に採取してまとめたデータを提示したのだ。
選手の基本データから体力測定の数値や、個人的な癖、対戦相手との相性など。果ては全く関係なさそうなパーソナルデータであっても試合中の思考に影響するとかなんとかいって、ありとあらゆる手を尽くしてデータを完成させるのが悠夜という女だ。それを事細かにまとめて、その人物がいかに求める者へと成長して行くかを考える。そしてその段取りを組み、更に実践する。ここまで出来て、実例があれば完璧だ。
そしてそれは成宮尊というバスケ素人が高校からはじめたバスケ生活を提示すれば立派なサンプルとなり、そして俺等の母校でもあるあの高校の実績を見れば明らかだった。
そうして俺の要求をのまざるを得なかったこの大学だが、その点に関してかなり利益を貰ったと思っていいだろう。悠夜は基本全体の練習を見ることはないが、それこそ選ばれた人間に絞って集中的に始動をする役目を貰っている。そのおかげかどうかはまだ判断し難いが、それでも俺等が入学してから明らかに何かが変わったと言っていたのは元々ここにいた先輩達なのだから、疑いようもない。
「――うわ、授業中にバスケの事考えてるキモ…」
「悠夜」
悶々と長い授業の間、悠夜のノートを見つめていた俺は不意に横から聞こえた声に顔を上げる。いつの間にか授業は終わっていたし、開いていたノートは真っ白のままで、これまたいつの間にか教室に入って来ていた悠夜はその後ろでこちらを見ている成宮と矢野を指差して「お昼だよ」と机を叩いてみせた。
「…ああ、もうそんな時間か」
「うちらさっきまで隣で授業だった。矢野君は拾った。みんな次空きだっていうから、一緒にどうって」
「わかった。ちょっと待て」
片付けるから、といって机の上を整理する。今の授業のノートはまた今度誰かに借りればいいとして、扉の付近でこちらを見ながら待っている背の高い男二人に歩み寄って行った悠夜は、ここから見るとまるで子供のようだ。
まあ、俺も背は高いほうじゃないからあまり人の事は言えないが、この大学ではさして目立たないその外見が人気が減るとああも目立つ者になるんだなと感心しながらカバンを掴んで立ち上がる。
待ってましたと言わんばかりに「碓氷君!」と声を上げた成宮に軽く手を挙げて返事をした。
「晴れてるから外行こって話になったけど」
「ああ、構わない」
「俺購買よってからでいい?」
「え、矢野君買い弁?この間食事バランスのプリント渡さなかったっけ?」
「ははは、やだなあ…今日はたまたま!」
「嘘だろ」
「えーじゃあ、俺にユウヤの弁当くれよ」
「うるせえ禿げろ」
「理不尽!?」
何その暴言、と悠夜を見下ろす矢野に悠夜下から睨みあげるように視線を向けると「コンビニ弁当は偏るからダメだっつってんだろ」と顔を顰めた。
「わーかってるって!ホント!たまたま!いつもはちゃんと親に頼んでるよ」
「弁当作ってくれる可愛い彼女が出来ればいいね」
「ああ〜そうねえ…ミコトには弁当作ってくれるかわいユウヤちゃんがいるもんねえ…」
「殺す…」
「なんで褒めたよね!?」
「…亮ちゃん…」
相変わらず殺伐としている二人の雰囲気だがこれが通常運転なのでとくに気にせず、学習しない矢野を宥める成宮が「なんでいちいち怒らせるの」と苦笑しながら悠夜と矢野の間に割って入ったのを見届けて「そういえば」と俺は口を開いた。
「悠夜、今日の帰りだが、」
「え?今日?」
「用事があるか?」
「今日は尊とシューズ見に行く。バイトないし。なんかあった?」
「いや、それならいい」
「碓氷君、用事あるなら俺今度でもいいよ?」
「練習で気になるところがあっただけだ。別に今日じゃなくても問題ないから、大丈夫だ成宮。お前のシューズはそう言えば結構ガタが来てたな」
「あーそうなんだよね…入学の時に変えようと思ってたんだけど間に合わなくて結局そのままでさ…」
だから今日付き合ってもらうんだーとへらりと気の抜けた笑みを浮かべる成宮に悠夜は心底めんどくさそうな顔で溜め息をついている。しかし昔に比べたら十分にまるくなった悠夜の対応はかなり進歩しただろう。
前だったら何かと理由を付けて誘いを断っていただろうに、人は変わるもんだと感心すら抱いてしまう。
「なんかユウヤまるくなったよなー」
「矢野君は相変わらず学習しないよね。うざい」
「俺には一生かかっても優しくならないのかな…」
ちょっと淋しい、と泣きまねをしてみせる矢野を心底鬱陶しそうな目で見た悠夜は「それじゃあ可愛いコンビニの人からご飯かって彼女のお弁当気分をどうぞ」と意味の分からない事を言い残して矢野と別れて外へと足を向けた。
それから全員で話をしながら昼食をとって、普段通りの練習を終えて一人。
時々誰かが居残り練習をしているが、今日は俺一人のようで普段より格段に静かな体育館でボールのドリブルをする音だけが響く。
あらゆる環境の変化が人を変えて行く。悠夜は今まさに俺が過去に望んだように進んでいるのだ。それでいいと何度も何度も心の中で思った。それは間違いではないのに。今ここにいない存在が不思議と何かの違和感を感じさせている。
けれど、それは、
「あれ、少年、今日は一人なの?」
「……、…余呉先輩」
手から放たれたボールが、リングに当たって跳ね返る。そのまま床に落ちたそれがダンっ、と重い音を立ててこちらに戻ってくるのを手を差し出しながら受け止めて、声のした方を振り返ると練習後の片付けをしていたのか籠を持った余呉先輩がそこにたっていた。
「悠夜なら成宮と帰りましたけど」
「そっか。別に三条ちゃんとはいってないんだけど」
「?」
「あ、ううん」
なんでもないよ、といつものように笑うその顔を見て思わず顔を顰めてしまう。その俺の顔をみてなぜかくすくす笑った余呉先輩は備品倉庫がある方へ歩きながら視線だけを俺へと向けた。
「淋しそうだね」
「は?」
そして、謎の一言。淋しそう?俺が?なんで。
そこまで考えて倉庫の扉の向こうに消えた背中を睨むように見つめる。淋しそうだなんて。そんなわけないのに。
やっぱり、よくわからない先輩だ。
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